本当の豊かさめぐる地球へ

「実のなる木のたとえ話」

むかし むかし…誰のものでもない土地に、

誰のものでもない木が、植わっていました。

リンゴの木、ミカンの木、ブドウ、桃、キウイ、

それから、それから、たくさんです。

リンゴが食べたい人は、リンゴをとって食べ、

ミカンを食べたい人は、ミカンをとって食べました。リンゴを食べたい人が、ミカンをとって食べたりはしません。

本当にカラダが求めるものを食べると、

すぐに満たされます。

食べたくなければ食べません。

食べたい人が、食べたいものを、

食べたいときに食べていたら、

パズルのピースが合わさるように、

すべての人に 必要な物がいきわたるのでした。

だから奪うことも奪われることもありません。

ところが、ある日へんな人が現れて

「このリンゴの木は、オレの木だ」

「リンゴが欲しければ、代わりに何かをよこせ」

と言い出しました。

それから、ミカンの木を「自分のものだ」

という人があらわれ、

ブドウの木を「自分のものだ」という人が

あらわれました。

そして誰もが、自分の木を植え始めました。

すると、リンゴが食べたいのにミカンを食べる人、何も食べられない人、

誰のものでもなかったリンゴを

「盗む」人があらわれました。

リンゴが手に入らなくなると、

みんながリンゴを欲しがりました。

そうして食べたいものを、

食べたいときに食べられないのが

当たり前になって、

自分が本当は何を食べたいのか、

サッパリ、分からなくなってしまったのです。

ーーー

それから何千年たったでしょうか。

疲れはててボロボロになった人が、

「わたしが本当に食べたいのはリンゴじゃなかった」

と気がつきました。

さらに数十年かかって、

本当に食べたいのは桃だったことに気がつきました。

けれども、1個の桃を得るためには、

自分が植えた木から

100個の果実を差し出さないと、

手に入りません。

「もうやめた」

とこの人は思いました。

自分の果実を本当に欲しい人がいるなら、

交換せずに100人にさしあげよう。

「だって、もともと、そうだったんだから」

100人がこの果実を受け取ったとき、

空のかなたから、それは美しい桃色の光が

キラキラと舞い降りてきました。

この人と100個の果実を食べた人々は、

桃色の光に包まれました。

みんな、なんだか分からないまま、

ボーっとしていると、

光はまた見えなくなりました。

気がついたらこの人は、

桃がいらなくなっていました。

リンゴもブドウも何もなくても、

満たされていたのです。

「なんか、よく分からないけど、わたしはこれでいいや。」

と、この人は思いました。

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みなさんの「自分の木」には

何が実っていますか?

リンゴ、もの、土地、…?

才能、能力、特技、知識、技術、

経験、アイデア、作品…?

あるいは犠牲、努力、時間…?

それは誰のもの?

              おわり

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